「シシィ」の愛称で呼ばれるえりエリーザベト皇妃について今日は少し触れます。
少しというのはすべて書くとかなり長くなるので、さらっとまとめます。
画像は用意できなかったのですが、検索すると実際の写真も見ることができます。
エリーザベト「Elisabeth」/シシィ
エリーザベトは1837年クリスマスイヴにバイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家の次女として、父バイエルン公マキシミリアン・ヨーゼフ、母ルドヴィカ・フォン・バイエルンのもとに生まれました。
※バイエルン王国とは、ドイツ南部の王国であり、首都をミュンヘンとして、ヴィッテルスバッハ家によって治められていました。
日本では英語読みでエリザベートとも表記されていますが、ドイツ語では「Elisabeth」エリーザベトと読みますが、現在ではシシィと親しみを持って呼ばれてもいます。
エリザベートは10人兄弟といわれていますが、父親はかなり奔放だったので、それ以外にも兄弟姉妹がいるといわれています。そのような奔放な父でしたので、幼少期には父マクシミリアンと共に街で、チター奏者に扮しチップを貰ったり、狩りなどもしており、そこからのオーストリアの皇后教育は彼女にとってつらい日々となったようです。勉強嫌いの、シシィは度々、癇癪を起していたのだとか。
エリザベートといえば、かなりの美貌で有名ですが、美人5姉妹としても知られています。
オーストリア皇后に
1853年8月に、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と婚約します。本来はエリーザベトの姉である、ヘレーネが皇后になる予定でしたが、付き添いであった、エリーザベトにフランツ・ヨーゼフ1世が一目ぼれしたことから、エリーザベトがオーストリア皇妃となることになりました。
何とも皮肉ですが、結果としてはのちに、姉が一番の幸福を手に入れたのではないかと言われています。何が幸せかは人それぞれですが、愛し愛され幸せな人生だったらしいので、そこは安心しました。
結婚後の運命
エリーザベトは、嫁姑問題で苦労しました。姑ゾフィーはもともと、エリーザベトとの結婚にいい印象を持っていなかったため、二人の関係はいいものではありませんでした。ゾフィーはエリーザベトに歯が黄色いことを指摘し、エリーザベトは話すときも口元を隠していたと語られています。
エリーザベトは生涯4人の子供に恵まれましたが、姑に子供を取り上げられたうえ、子供の死もあり、だんだんと精神を病んでいくのでした。彼女は自分の武器である、美に次第に翻弄されていき、過剰なダイエットや美への執着でついに療養することとなります。そこから、長い放浪生活が始まったのです。ちなみに、4番目の子供であるマリー・ヴァレリーはエリーザベトが育てることができた唯一の子供でした。
ハンガリー
厳しい王妃教育の中で、エリーザベトは、ハンガリーには興味を示しました。その後、ハンガリー語を勉強し、1967年に夫婦はハンガリーの国王と王妃とし、戴冠式を行いました。
暗殺
1898年9月、スイス・ジュネーブでイタリアの無政府主義者ルイージ・ルケーニによって暗殺されました。60歳でした。埋葬はわけてされているようですが、遺体はカプチーナ教会、心臓はアウグスティーナ教会に、内臓はシュテファン大聖堂に埋葬されました。
エリーザベトの映画やドラマ
エリーザベトの映画やドラマはいくつか制作されています。
その他ミュージカルなどでも度々、彼女の生涯が演じられています。
ドラマは現在、Netflixでも視聴可能です。
エリーザベト・ウィーンを巡る
ウィーン・ホーフブルク宮殿に、シシィ博物館があります。
その他、エリーザべトを巡る旅などもよく企画されているようです。
最後に
勝手な感想ですが、シシィの人生は壮絶なものでしたが、おそらく無邪気に過ごせたドイツでの生活が彼女にとって一番楽しい時間だったかもしれません。細かく調べていくと、意外な話も出てきたりするので、興味があるかたは、時間のあるときに見てみてください。今となっては言い伝えなので、何が真実かはわかりませんが、彼女の美しさは今でも伝説となっており、ドイツ・オーストリア・ハンガリーで愛され続けていくことだけは確かなようです。
また、私はドイツ語をカタカナにすることが得意ではないので、記載にミスがありましたらすみません。
最後までありがとうございました。